【街道探訪】日原街道

東京都の最奥を走る道路は、仙人が居ついてそうな仙境の山塊奥秩父のすぐ下にまで伸びている。

岩肌が高く聳え、山が噛むように迫り、重畳する山々の渓谷を縫い、水声のざわめきを横にやがて鍾乳洞に突き当たる。
東京都内に籠る1000万以上の人間が見れば、これが本当に東京都の空間であるのかと満目疑いたくなるほどの大自然である。
この大自然に閉ざされ、細々と山塊を穿つ道路が東京都の最奥を走る日原街道であり、江戸期の江戸における僻地であった。

日原の歴史は、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土」に登場し、その歴史的背景は戦国期に始まるらしい。
この東京奥地に存する歴史を調べるにつれ、奈良県十津川村の政治的地理背景に共通を見出すことができ、わたしは日原に対する怪しげな好奇心が募った。

日原街道の歴史

前述した「新編武蔵風土」の日原に関する記述を引用する。

     かかる所に家居をなせし初をいかにと尋るに、村内原島氏の先祖は北条氏に仕え、原島丹次郎友一といひしが、天正(1573〜1593)年中の乱を避けてここに来たりしより、やうやく民居いてきしと言い伝えたり、されど下にのする如く文安(1444〜1449)二年の鰐口ある薬師堂もあれば、古くより人家も多かりしことおもひしらる。

    この辺山上の雑木を伐り倒し、ややかわきたるをりをうかがひて焼払ひ、その跡へ稗、粟、大豆、蕎麦の類をうえれば、外に糞培の功を待たずして成熟す。これを焼畑といへり。

    農業のいとまには男子は山へ入て木を伐り炭をやけり、もとよりこの辺牛馬のかよひなければ、山にて焼きたる炭を二俵或は一俵背負ひ、氷川村まで負ふて出、是を女子の業となせり。

解釈すると、
原島丹次郎友一という人物が1573年(戦国時代)からの戦火を避けて、日原まで逃げ延びてきた。
原島丹次郎友一が来村するまでに人は住んでおり、古くからここに人里があったと思われる。
ここ日原の村民は、今の国道411号沿いにまで炭を売って生計を立てていた。

四方けわしく牛馬の往来もかよはず、他村より此村へ入れる所はただ一方の道にて、いとも辺境なれば自ら盗賊の患もなく、旧くより戸さしも忘れぬ。 


日原の四囲環境は険しく、牛馬すらの通行も困難であり、他村へ通じる道は一つのみであり、大山塊の秘境にあり盗賊も来ないため、自宅の戸締りなどはしなくてもよかった。

上にあるように、日原街道とその沿線にある集落は戦国期以前から存在はしていたようである。
本当にこのようなところに、山野野切り開かれていない場所に人が居住していたのかと疑いたくなるであろう。
その先入観は現代の簡便な交通時代でこそ抱くものであり、遥か上代にまで遡ると、交通史というものは山を超えることで成立していた。
都市化した社会を除いては、特に山塊の中にある里へ通じる道など獣道同然の状態であったところも多かった。
余談ではあるが、奈良県十津川村に至っては戦後になるまで道路の整備がなされないまま放置されていた。奈良時代や江戸時代ではなく戦後の話である。

無論、山道が交通の幹線であった時代には秘境といえるような場所に人が住んだ。
現在の価値観からわかりやすく例えると、このような人煙まれなところに何故茶屋が置かれていたのか。といった具合である。

日原もかつては、そのような秘境の中の里であった。
現代でも、その山深さに肝を潰されるのであるから日原への交通が整備される以前など現代人には到底理解できない生活環境であったであろう。

日原街道と自然

木漏れ日の中の日原街道

フルオープンで東京都の大自然を堪能

道路に沿って清冽な渓流が走る

山が眼前に迫る日原の集落。中央が「稲村岩」。

巨石が転がる日原鍾乳洞

峨峨としてそびえる岩壁。すぐ下を日原街道が走る。