読書記 竹内街道 司馬遼太郎

筆者は竹内街道は何度か超えたことはあるが、残念なことに街道の路相になんの感興も沸かずに現在に至る。

竹内街道は言うまでもなく、日本の官道として最も古い国道であるが、もはや古代の雰囲気はどこにも残されていない。
日本の歴史街道としてその当時の経路であろう道筋への誘導や整備もされておらず、アスファルトのしかれた現代国道が通過しているだけなのである。

司馬遼太郎竹内街道の記事を書いた時点においても、もはや上代竹内街道といったものはなく、竹内界隈の筆致も威勢が感じられない。

このように、あまり竹内街道を題目においた内容が書かれてはいなかったが、本書で面白く読み進めることができた話題をここに残したい。

伝説の剣が出土した

禁足地と称されていた「高庭」。
立ち入りが明治時代までなされていなかったこの場所を掘ってみると、なんと伝承されてきた神武天皇が使用したとされる剣が本当に出てきた。

実際に出てきたものだから、祟りがあるとおそれ、神体として今現在は石上神社に奉安されている。そのため、どのような剣であるかは一切みることができない。

 

読書記 葛城のみち 司馬遼太郎

葛城と聞こえると、奈良県の中でも文化的に何があるのか即座に想起できるものがなかった。
筆者は生駒郡斑鳩町の出生であるため葛城はもはや目と鼻の先に位置する。
隣の王寺町北葛城郡に属するので、葛城と言った地名も物心がつく前から目にし非常になじみ深いものがある。

そうであるのに、葛城にいったい何があるのか。
奈良県下に身を置くものとしても日常生活をしているだけではその話題性に触れることはまずない。

その印象を道路に例えると、山陽道奈良市橿原市であり、山陰道が葛城にあたるであろう。無論、大和朝廷が起った橿原市と対称的な位置にあり、文化面においてもその繁栄は橿原にはるかに劣る。
このように、印象が非常に薄く、裏庭のような、あえて足を伸ばす用事もないところなのである。

さて、その葛城に関する歴史的な話題を司馬遼太郎は残しており、これが非常に感興をそそるものとなっている。
紹介された内容に関して、私なりにどうこの地方に対して意味を持つことができたのかを少しばかり綴りたいと思う。

大和朝廷より古く成立していた王朝

筆者は奈良県下における王朝で有史に記録されている最古のものは、邪馬台国は別として、天皇を中心とする大和朝廷であると認識していた。

ところが、大和朝廷よりも古く奈良盆地内に王朝があると知り日本史が覆ったような心境になった。

葛城氏がそうで、天皇が成立する以前から勢力を持ち、葛城山を神体として誇っていた。やがて大和朝廷が勢力を拡大し、葛城山麓にまで及び葛城氏を滅ぼしてしまう。葛城の先住民もろとも土佐へ流され、そこで土佐の現在の都市である地域を開墾したと説明されている。

さらに興味深いことは、その追放した直の相手が天皇自身であるということである。
今の天皇の在り方から見れば実に粗野で野性的で天皇そのものの振る舞いが実に新たな領域を切り開く王として人間的で面白い

その最古の王朝であった葛城は高知へ流れ、幕末に主役となる高知と、その対称的な奈良の繋がりを考えさせられたのも実に新鮮で興味深いものであった。

天皇の在り方が現在とはまるで違う面白さ

上に天皇の話題を取り入れているが、その天皇の名前は「雄略」という。
日本史の教科書においては、実在性が認められる最初の天皇と記載されている。
中国の歴史書宋書倭国伝に、倭の五王の中の「武」雄略天皇であることがわかっており、日本書紀においても「大泊瀬幼武(わかたけ)」となが見え、日本国内の稲荷山古墳において、鉄剣に「獲加多支鹵の命(わかたけるのみこと)」と刻まれたものが出土している。

この天皇が、自らをもって葛城氏を滅ぼし、奈良県下の勢力をさらに拡大した。
天皇がその氏族の長を直に滅ぼすといったことは、歴代の天皇の中でも唯一であろう。
その滅ぼし方も残虐であり、葛城の屋敷を取り囲み、葛城氏の哀願も虚しく容赦無く火をかけて焼き殺してしまったとある。

葛城という筆者にとって、歴史上の印象に乏しかった地域が天皇の行動といった点でさらに関心を高めた。

古代最初の王朝と、実在性のある最初の天皇が色濃く浸透している地域葛城。
我々が史料として確認できる日本史がここから始まった葛城。
身近な地域が俄に別天地のような、そういった神秘的な世界に見えてきた次第である。