【街道探訪】軽井沢

碓氷峠廃線がもとより気になっていた。
少年期の頃から山名には関心なかったが、浅間号のNゲージがお気に入りで浅間の呼称は馴染みが深かった。
東京都で自動車を所有したからには、碓氷峠を訪れてみようと計画したのが軽井沢への探訪の始まりであり、また、自動車趣味の友人から軽井沢の自然に関して教授してもらい自然美を堪能することも旅の動機でもあった。

この頃すでに、箱根、碓氷は関東へ入る自然の要害として私の頭の中で形成されており、歴史的観点からその異様な地形も見てみたいとも思った次第である。

軽井沢といった地名は、歴史の教科書には出てこないが、その台地に関する歴史は古く、坂東の玄関口として碓氷が登場する。

中央にいる公卿どもは都から外へ出ることは、奈良などの近隣を除いてはなかった。現在の琵琶湖ですらみたことがないというのだから、中央から見れば得体の知れない僻地辺陬に見えたであろう。全て国司などの土産話として想像を膨らまし楽しんでいたのである。

さて、今回の軽井沢の記事は、探訪の目的として交通の歴史と風土を少しばかり紹介し、現地で体感した自然美を綴ろうかと思う。
リゾート地軽井沢の紹介は、もうすでに種が溢れかえっており今更新鮮味もなく新たな記録は他に任せるとする。

軽井沢の交通史は碓氷峠に始まる

先にも触れたように、軽井沢の台地は奈良時代において、坂東へ下る交通路としてすでにその時代人が往来している。
碓氷峠が、東のさらに奥地へと入り込む玄関口のようなものであったと捉えて良いのかも知れない。それを表す一句が万葉集に残っているので二例ほど下に示す。

日の暮れに碓氷の山を越ゆる日はせなのが袖もさやに振らしつ
万葉集巻14東歌3402

※「碓氷の山」群馬県安中市と長野県北佐久郡軽井沢町の境界となる碓氷峠付近の山。
※「せなの」女性から男性を親しんで呼ぶ語。
※「さやに」はっきり。

日が暮れていく頃なのに
碓氷の山をわが君が
越えて行かれたあの日には
お振りになった袖までが
はっきり見えたことでした

ひなくもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
万葉集巻20防人の歌4407

 薄日のさす碓氷の坂を越えるとき、妻が恋しくて 忘れられない。

この二句に表されているように、碓氷峠は一つの大きな地域の区切りであったようである。
中央である京都からすると、平安時代はまだ東北や関東は未開の地であり、夷狄(特に東北)をまだ制圧できていない頃でもあった。
そう思うと、碓氷より東はどのような世界が広がっているのか公卿どもからすれば外国へ通づる道路として捉えていたのではないか。

軽井沢は牧場

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信濃なる 浅間の嶽に立つ煙 をちこち人の 見やはとがめん
伊勢物語在原業平

あづま路をはるかに出づる望月の 駒に今宵は逢坂の関
源仲正

嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒
藤原定家新古今集

 

 

 

 

 

碓氷という地名は、はるか上代の奈良に都が置かれていた時代に歌詠みで現れる。

この頃の地方の情勢などは、中央にいる上級貴族自らが現地に赴くことはなく、国司などの地方官の滞在記などで残された。
京都にいる上級貴族などは、その話から想像をもって、遠き異国の地に想いを馳せていた。
歌をもって、その国の風土や地理を残すのである。

和歌に登場する地方は無論、当時の奈良や京都から遥か遠方の東北や関東のことが多く書かれた。